料理本批評と同時代性

1976年生まれの著者、三浦哲哉氏が上梓した『食べたくなる本』(みすず書房、2019年)を読んでいる。
読んでいる、という理由は、読んでは食べたくなったり、食べながら読んだりしているから、一気に読み進まないからだ。内容がつまらないからとか、難しいからではない。現に今年2月の発売日からピンと来て、桜も散り始めた4月の今日もまだ読み続けているのだから、これは実に面白い本に違いない。
料理本の評論集『食べたくなる本』は、何か言いたくなる本。
第一に、著者が読んできた本と、本著で紹介されている本が、自分の読書歴とかぶる。どのくらいかぶるかというと、おそらく6割程度かぶる。正直に告白すると、硬派なみすず書房の本を読んで、そこの注釈であるとか参考文献であるとかに挙がっている本の半数以上を自分が読んだことがあるという経験は、浅学な筆者にはいまだかつてない。
著者は、専門は映画批評ということになるのだろうが、根っからの食いしん坊であるからして、しかし「好きなだけ料理店めぐりをできるほどの経済的かつ時間的余裕はこれまでの人生で、ほぼなかった」という微笑ましい理由から、料理書の森の探索に余念がない。料理家やエッセイストの著作を中心に、主婦層をターゲットにした一般家庭向けのレシピ本から、食の専門出版社から出ているプロ向けの料理書まで、その守備範囲は幅広い。そして、書で得た知識は自らの手を動かして実践する、つまり調理を実際に行おうという姿勢は実に好感が持てる。
ではなぜ、著者の読書歴と自分のそれとがあらかたかぶるのだろうと考えた時、ふとひらめいた。私が料理書を渉猟していた時期、つまりだいたい2000年から2012年の12年間がそれにあたるのだが、著者の料理書読書時期と私のそれがあらかた重なるからということなのではあるまいか、と思うに至ったのだ。
その12年間、私は出版社で食や旅関連の雑誌や書籍を世に送り出す版元編集者なる仕事をしてきたわけだが、最終的には、そこそこ歴史のあるとある料理専門誌の編集長を数年間にわたり務めることになった。ただ、編集者というのは実に会社員としてはまったくもってブルーカラーのハードな労働者であって、ましてや編集長という役職は会社の経営陣と現場スタッフや取材先、クライアントとの板挟みにあうばかりで、悠長な稼業ではない。耳にたこができるほどずっと言われ続けていてもはや食傷気味な“出版不況”により、最近はさすがに少なくなってきたとは思うが、“編集長=偉い、かっこいい、カリスマ?”みたいなイメージは大半のケースにおいて現実とはかけ離れていて、“編集長=損な人”といった図式のほうがむしろ正解である。書店を見渡しただけでも、出版物がこれほどたくさんあるわけだから、それだけの数の編集長があまたいるわけだ。一方で、それと逆行するようなZINEの流行やインディペンデント系書店の盛り上がりを見るにつけ、むしろ紙媒体はいつになく活況を呈しているといっていいだろうし、そうしたZINEの編集長だったり書店の店主のほうがよほどインフルエンサーだったりする時代だ。
さて、その前者の旧式な料理雑誌であるが、たいがいの料理雑誌には新刊を紹介するコーナーがあって、下っ端編集部員は、その連載ページを毎月担当することになる。私も駆け出しの頃には、煩雑な業務の合間を縫っては、月に3冊とか5冊とかの書評を書かなくてはならず、それは億劫な仕事ではあった。が、今思えば、2000年以降の主だった料理本に関してはたいがいのものは目を通してこれた(じっくり楽しみながら読む暇はほとんどなかったが)のだから、それも自分にとっては一つの糧となっているのかもしれない。
本著に名の挙がる人物たち——木村衣有子、冷水希三子、玉村豊男、平野紗季子、勝見洋一、奥田政行、フェラン・アドリア、長尾智子、ヴォルフガング・シヴェルブシュ、上原浩、大橋健一……。私にとっての愛読書の著者だったり、現に親交のある方たちだったり(故人であったり)、取材対象の人物であったり、自分の食の道標を築いてくださった敬愛する方々の名を目の当たりにすると、懐かしさとともに、やはりワクワクと心躍る感情が湧き上がってくるのである。
1975年生まれの私とほぼ歳を同じくし、食の専門家でも食を生業とするわけでもない、映画批評家である三浦氏は、食のプロ以上に食の世界に踏み込み、料理と酒を純粋に愛し、料理書に出てくる料理を再現しようと試行錯誤する。そして、福島県郡山市出身の著者が、2019年の日本という現在地において、2011年の原発事故に分析的にアプローチしつつも、実体験に基づく、沸き起こる抑えきれない感情ととまどいとを交えて語る本著が出版されたことの意義もまた大きい。

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